【第二次世界大戦】地獄の「ノルマンディー上陸作戦」簡単に解説
第二次世界大戦における「ノルマンディー上陸作戦」という作戦をご存知でしょうか?
映画『プライベート・ライアン


映画を観た人なら分かると思いますが、「ノルマンディー上陸作戦」はとても壮絶な作戦でした。
映画のインパクトはもの凄く、興味を持っている人も多いと思います。
今回の記事では、第二次世界大戦の転換となった「ノルマンディー上陸作戦」について、解説します。
この記事を読めば、今までベールに包まれていた作戦の概要が理解できると思います!
1. 作戦に至る歴史的背景
ナチスドイツは、ドイツ人(アーリア人)を優勢な人種とみなしており、ドイツ人の住む空間「生存圏」を広げるため、世界を侵略する計画を練っていました。
1939年9月1日、ナチスドイツがポーランドに侵攻し、ポーランドと友好国であったイギリスとフランスがナチスに宣戦布告することで、第二次世界大戦が始まりました。
「ナチスドイツ」 VS 「イギリス&フランスの連合軍(後にアメリカも参戦)」の形をしたドイツの西側での戦いを、「西部戦線」と呼びます。
西部戦線全史 死闘!ヒトラーvs.英米仏1919ー1945


1-1.ナチスドイツのヨーロッパ占領
ナチスは「電撃戦」と呼ばれる迅速な侵攻と、相手の意表をついた突破により、ヨーロッパの国々をどんどん支配していきました。
ドイツの東側に位置する、「チェコ・スロバキア」や「ポーランド」、また北に位置する「ノルウェー」、そしてその他多くのヨーロッパ諸国が、ナチスに征服されていきました。
そしてドイツが西側への攻勢を始めた時に、なんと大国フランスまでも攻め落とされてしまったのです!
映画『静かなレジスタンス


フランスの敗北は世界にとって、とてもショッキングなことでした。
しかもナチスはフランスをただ征服するだけでなく、国の南半分はフランスに自治権を持たせることで、ドイツとフランスが仲間になったような形を作ったのです。
フランスを含むヨーロッパのほとんどの国がナチスに占領されてしまい、イギリスは遂に追い詰められてしまいました。
しかしイギリスはナチスへの抵抗を全く止めず、首相ウィンストン・チャーチルは1940年6月18日、下院議員の演説で以下のようになメッセージを発したのです。
フランスにおける事態の推移にかかわらず、またフランス政府の地位がどうなろうとも、わが国とフランスの戦友関係が失われることはない。そして、チェコ人、ポーランド人、ノルウェー人、オランダ人、ベルギー人など、我々と進退を共にする人々が、元どおりの生活を取り戻すという正当な要求を、我々は1分たりとも譲ることはできない。(中略)我々は自らに課せられた義務のために勇気を奮い起こし、大英帝国とその連邦が今後1千年続いた後もなお、人々に「あれこそ英国の最も誇り高きとき(Their Finest Hour)であった」と讃えられるよう、振る舞おうではないか。
西部戦線全史 死闘!ヒトラーvs.英米仏1919ー1945(p.262)
この時、ドイツの進撃を止めるべくして戦ったイギリス・フランス軍は、フランスの北の海岸「ダンケルク」から撤退することになりました。
これがかの有名な映画『ダンケルク』です。

1-2. 真珠湾攻撃とアメリカの参戦
イギリスは盟友であるアメリカに、参戦のラブコールを送り続けていました。
しかしアメリカは、「他国の情勢には非介入」という中立的な立場をとっており、アメリカの世論は「戦争反対」が大多数という状況でした。
ただ、もしイギリスが倒れてしまった場合、いよいよナチスの脅威は世界レベルに達します。
長期的にはアメリカの国益を悪くすると判断したアメリカは、細々と武器の供給だけは、イギリスに対して続けていたのです。
そんな中、日本軍がアメリカの艦隊が多く停泊する「真珠湾」を攻撃しました。

日本はアジアで勢力を広げるにあたり、真珠湾にあるアメリカの戦艦が邪魔だったので、先に叩こうと思ったのです。
真珠湾の被害は甚大でしたが、アメリカはついに全面的に戦争に入る口実を得ました。
日本と同盟を組んでいたナチスドイツも、真珠湾攻撃をきっかけにアメリカに宣戦布告し、ついに西部戦線にも眠れる巨像であるアメリカを呼び起こしたのです。
2. ノルマンディー上陸作戦の準備
イギリスとアメリカの「米」「英」連合軍は、ナチスを倒す作戦を考えました。
当初は、連合軍でイタリアの南から上陸し、北へ攻め上がってドイツを目指す作戦も実行しましたが、途中で侵攻が難しくなりました。
そこで立案された作戦が、「北フランスから上陸し、東に進んでドイツに攻め込む」というものでした。
つまり、まさに北フランスから上陸するその作戦こそが、「ノルマンディー上陸作戦」です。
2-1. 内陸の重要拠点の確保
ノルマンディー上陸作戦は、主に2つの段階に分けられていました。
1つ目は空挺部隊で空から侵入し、フランスの沿岸の内陸にある重要な「橋」や「拠点」を確保することです。

上陸作戦は「奇襲」として実行することが大事で、ドイツの援軍がどんどん集まってしまっては問題です。
なのであらかじめ「橋」を占領し、ドイツ側の迅速な展開を遅らせる必要があったのです。
また連合軍の上陸後に内陸に攻める際に、重要な拠点があらかじめ確保されていないと、連合軍の迅速な展開もできません。
そのため、あらかじめ海岸だけでなく内陸の情報も詳しく調査し、内陸のキーポイントを整えておくことが非常に大事だったのです。
2-2. 5つの海岸への上陸
2つ目の段階は、海上からの上陸です。
海上からの上陸作戦は「ユタ」「オマハ」「ゴールド」「ジュノ」「ソード」と呼ばれる、5つの海岸で行われることになりました。

連合軍の中で、広大なフランスの沿岸で、どこから攻めるかは「トップシークレット」として扱われました。
ナチス側は、「連合軍はフランスの北の沿岸から攻めてくる」と予想していましたが、その中でどの海岸かは明確には分かっていなかったのです。
連合軍は上陸する場所を撹乱するために、連日にわたって北フランスの海岸線の全体を均等に爆撃していました。
このような偽装工作を繰り返し、いざ「ノルマンディー上陸作戦」の実行日である「Dデイ」を迎えることになったのです。
前日の6月4日になると、英仏海峡の天候は悪化し、暴風雨が吹き荒れる様子を窓から眺めて、米英連合軍の首脳は途方にくれた。もし、決行を遅らせるなら、月齢と潮位の関係から、次の機会は7月19日まで待たなくてはならない。(中略)悩み抜いたアイゼンハワーは、熟考のすえ、6月4日の午後9時45分に決断を下した。
西部戦線全史 死闘!ヒトラーvs.英米仏1919ー1945
「よし、諸君!行こうじゃないか!」
後に「史上最大の作戦」と呼ばれることになる大作戦が、遂に動き出したのである。(p.365)
3. 作戦① 空挺部隊の上陸

1944年6月1日、イギリス国営放送BBCのラジオ・アナウンサーは、フランス国内のレジスタンス組織に向けて、19世紀のフランス詩人ヴェルレーヌの「秋の詩」の冒頭部分を繰り返し読み上げた。
西部戦線全史 死闘!ヒトラーvs.英米仏1919ー1945
「秋の日のヴィオロンのため息の、」
これは、米英連合軍による上陸侵攻作戦が間近に迫っていることを告知する暗号で、3日後の6月6日の夜には再び、作戦が24時間以内に結構される意味を持つ、同じ詩の続きの部分がラジオの電波に載せられた。
「身にしみて、ひたぶるにうら悲し。」(p.377)
このラジオ聞いたフランス国内のレジスタンスは、ナチスの軍隊の移動を阻むための、大々的な破壊工作を開始しました。
そして、6月6日(Dデイ)に、「ノルマンディー上陸作戦」決行の日を迎えます。
まずは第一弾として、空挺部隊の上陸が深夜に行われました。
3-1. 輸送機とグライダーでの降下
空挺部隊の降下はグライダーや、輸送機からパラシュートで飛び降りる形で行われました。
暗闇の中、空から敵の地へ飛び降りるのは、相当の恐怖があったと思います。
「バンド・オブ・ブラザース輸送機は西から東へ進んだのだが、半島を横切るのに12分しかかからず、降下が遅すぎた者は英仏海峡へ落ち、早すぎた者は西海岸から冠水地帯の間に落下した。…ある者は飛び降りるのがおそすぎ、下の闇をノルマンディだと思いながら英仏海峡へ落ちて溺死した…いっしょに降下した兵士たちはほとんど重なりあうようにして沼に突っこみ、そのまま沈んだきり上がってこない者もあった。
『史上最大の作戦』pp.199-200



ナチスからの激しい空中砲火の中で飛び降りた空挺部隊は、暗闇の中で散り散りになってしまったといいます。
バラバラになってしまったのは、連合国側にとってはバッドニュースでしたが、これはナチス側にとってもバッドニュースでした。
ナチスは、森の中から次々と出現する連合軍の兵士に困惑し、全体像が掴めずにパニックに陥ったのです。
3-2. ペガサス橋などの確保
その後、空挺部隊は「ペガサス橋」や「ホルサ橋」の2つの橋、そして「メルヴィル砲台」と呼ばれる上陸艦艇の脅威となる陣地を確保する作戦に出ました。
もちろん連合軍の被害は甚大でしたが、作戦自体は順調に進みました。
特に「ペガサス橋」についてはあまり損害も出ずに、迅速に確保することできました。

上の写真では、「ペガサス橋」のすぐ近くにグライダーが写っています。
綿密な事前調査とグライダーパイロットの運転技術が優れていたことにより、ペガサス橋の直近に着陸することができたのです。
4. 作戦② 海上上陸部隊の突入

空挺部隊が内陸の重要拠点を制圧後、海の彼方から連合軍の大船団が姿を現しました。
いよいよノルマンディー 上陸作戦のメインである、海からの上陸が始まります。
上陸は、舞台の進攻を阻害する砲台を狙った、海からの一斉砲撃から始まりました。

ただし、海上からの砲撃では多くの戦果を上げられず、故に上陸部隊は後に壮絶な集中射撃を受けてしまったのです。
4-1. 地獄のオマハビーチ

特に地獄だったのが「オマハ」です。
オマハ海岸の沖合では強風が吹き荒れており、戦車32両のうち、27両が海外に上陸する前に海の藻屑になってしまったようです。
また、ナチスはオマハには精鋭部隊を配置しており、強固な防衛拠点を築いていました。
「プライベート・ライアン


上陸が容易だった「ユタ」などの他のビーチと比べ、「オマハ」は地獄そのものでした。
海岸線はパニックに陥り、生存と救助のための闘争となったようです。
「Dデイ」が終わった時点で、連合軍はノルマンディー海岸に15万人近い将兵を上陸させ、ドイ軍の沿岸防衛部隊と交戦で約2500人の戦死者と約6500人の負傷者を出す結果となったが、死傷者の4割は「オマハ」海岸に上陸した米軍部隊から生じていた。
西部戦線全史 死闘!ヒトラーvs.英米仏1919ー1945(p.395)
4-2. 海岸の制圧と内陸の突破

奇襲にパニックに陥ったナチスは、連合軍が恐れていた「組織的な大反撃」ができませんでした。
そして連合軍は、すべての海岸の制圧に成功しました。
大きな損害は出たものの、損害は全体としては連合国軍が想定したのを上回っていなかったようです。
その後、連合軍は海岸に近い街を次々に制圧し、いよいよ「花の都」パリの解放に向かいました。
5. 「花の都」パリの解放

連合軍はパリの解放の方法として、「都市全体を包囲し、ナチスの降伏を促す」という形を考えていました。
攻め込むと壮絶な市街戦になってしまうこと、また占領後のパリ市民の生活基盤構築による、ドイツ侵攻への影響が出てしまうことを懸念したためです。
しかしナチスのフランス占領開始からイギリスに亡命していた、シャルル・ド・ゴール率いる「自由フランス軍」が、「自分たちがパリを解放するべきだ!」と主張し、自由フランスがパリに乗り込んだのです。
5-1. 「パリは今、燃えているのか!」
追い詰められたヒトラーは、「パリを連合国に引き渡すぐらいなら、全てを破壊したほうがマシ」という恐ろしい考えを持っていました。
そしてヒトラーは、自由フランス軍の侵攻の直前に、「エッフェル塔」や「ノートルダム大聖堂」「エトワール凱旋門」など、歴史的建造物を破壊の命令を出したのです。
命令を受けたフォン・コルティッツは、ヒトラーからの命令と、パリの「花の都」の偉大さの間に揺れ、最終的にはヒトラーの命令を無視しました。
「パリの街が解放された」という知らせを聞いたヒトラーは激怒し、テーブルを叩き、側近に狂ったように怒鳴り散らしました。
『パリよ、永遠に「あれほど繰り返しパリの破壊を命じたではないか!爆破のための工兵も、大砲も送ったではないか!パリ全市を破壊せよとの命令は実行されたのか?パリは燃えているのか?どうなのだヨードル!パリは今、燃えているのか!」
西部戦線全史 死闘!ヒトラーvs.英米仏1919ー1945(p.443)



5-2. 喜ぶパリ市民

1944年8月25日、ついにパリは解放されました。
4年もの間ナチスに占領されていたパリの市民は喜びに満ち溢れました。
解放に来た連合軍にキスやハグをしたり、英雄として迎え入れたようです。
家の窓を解放してフランス国家「ラ・マルセイエーズ」を大音量で流し、フランスの国旗も掲げられたそうです。
一方、ナチスと親しくしていた人々は見せ物にされ、ナチスの愛人の女性は髪の毛を丸坊主にされるなど辱めを受けてしまったようです。
6. ノルマンディー上陸作戦の影響

ノルマンディー上陸作戦を皮切りに、連合軍はフランスへ突入しパリを解放しました。
その後、次々とフランスの街を解放し、フランスは自由を取り戻すことができました。
6-1. 連合軍の大攻勢
ノルマンディー上陸作戦は、間違いなく第二次世界大戦の転換となりました。
一時期は、ナチスはヨーロッパのほとんどを占領し、世界は征服されてしまう寸前でした。
しかしイギリスやアメリカを中心とした連合軍は、血を流しながらノルマンディー上陸作戦を実施し、大攻勢へと転じることができたのです。
ノルマンディー上陸作戦後、フランスのパリやさまざまなな街を解放し、連合軍はやがてドイツのベルリンを目指しました。
6-2. ナチスの崩壊

実は、ベルリンに連合軍より一足早くたどりついたのは、ソ連の「赤軍」です。
ナチスは、イギリスやアメリカの連合軍と戦っていたのと同時に、東側ではソ連と戦っていました。
ナチスはソ連との「東部戦線」、連合軍との「西部戦線」の2つの戦線で戦う必要があり、挟み撃ちに遭って力尽きてしまったのです。
ノルマンディー上陸作戦によって西の背後をつかれたナチスは、東からソ連軍が進行してくることを阻止できませんでした。
ベルリンの「総統地下壕」で潜伏していたヒトラーは、ソ連軍が地下壕へたどり着く数日前に、愛人と一緒に自殺しました。
その時のベルリンの様子が『ヒトラー ~最期の12日間~


そして、ナチスは無条件降伏をして、ついにヨーロッパでの第二次世界大戦が終わったのです。
おわりに

今回の記事では、第二次世界大戦の転換となった「ノルマンディー上陸作戦」について、解説しました。
「ノルマンディー上陸作戦」は、ナチスが崩壊しヨーロッパでの第二次世界大戦の終止符を打つための、大きな1歩だったと言えるでしょう。
歴史を学び、平和の為に何ができるかを考えるきっかけになれば幸いです。


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