【第二次世界大戦】ダンケルク、史上最大の撤退戦を分かりやすく解説

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【第二次世界大戦】ダンケルク、史上最大の撤退戦を分かりやすく解説

皆さんは「史上最大の撤退戦」とは、何かご存知ですか?

第二次世界大戦時、ナチスドイツによりフランス北部に追い詰められたイギリス・フランスの連合軍は「ダンケルク」の浜辺から、イギリス本土へ撤退しました。

映画『ダンケルク』は有名なので、映画は観た事がある人も多いと思います。

ただし、映画を観ても色々な疑問が残りますよね?

  • なぜイギリス・フランス軍は、「ダンケルク」に追い詰められたのか?
  • 両軍は、どのようにダンケルクから撤退したのか?
  • この「撤退作戦」が及ぼした影響は、何だったのか?

今回の記事では、ダンケルクにおける史上最大の撤退戦について、わかりやすく解説します。

映画を観て興味を持った人、また歴史が好きな人は、必見の内容となっています!

1.作戦に至る歴史的背景

この章では「ダンケルクでの撤退」に至るまでの、歴史的背景について解説します。

主に以下の本を参照しています。

西部戦線全史 死闘!ヒトラーvs.英米仏1919ー1945

ナチスドイツのポーランド侵攻、第二次世界大戦勃発

ドイツの独裁者となったヒトラーは、「第一次世界大戦によって失われた、ドイツ人の尊厳を取り戻す」という口実で、ヨーロッパへの侵略を始めしました。

こうして「オーストリアを併合」したり、「チェコスロバキアに侵攻」したりと、徐々に領土を広げていきました。

徐々に勢力を広げていくナチスドイツに対して、ヨーロッパの大国であるイギリスとフランスは戦争をなるべく避けるつもりで、あまりドイツを刺激しないようにしていました

そしてナチスは、ドイツに国境を隣接するポーランドに対しても、領土の割譲など理不尽な要求を突きつけて、これに応じないポーランドにも侵攻を開始しました

ポーランドが頑としてドイツの要求に屈しないことを理解したヒトラーは、残された唯一の手段に訴える決意を固め、8月31日付で次のような戦争指導命令を下達し、ドイツ軍に9月1日午前4時45分を以てポーランドと交戦状態に入る様命令した。

「ドイツ東部国境をめぐる問題は、これ以上容認できない状況となり、平和的解決を目指す政治手段が尽き果てるに及び、私はここに武力による解決を決意する。」

西部戦線全史 死闘!ヒトラーvs.英米仏1919ー1945p.120

フランス・イギリスVSナチスドイツのまやかし戦争

※当時では無く現代の地図を使っています(図はイメージです)

ポーランドとは、イギリスとフランスは「同盟関係」にあったので、ドイツがポーランドに侵攻したときには看過できず、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告しました。

こうして、ヨーロッパおよび世界中を巻き込む「第二次世界大戦」が勃発したのです。

しかし、イギリスとフランスは自国が戦火に巻き込まれるのを危惧し、あまりヒトラーを刺激しないように積極的な攻撃はしませんでした。

この時点では、ドイツ側もイギリスやフランスへの攻撃は最小限にとどめており、お互いがただ牽制しあうような状態でした。

これにより、第二次世界大戦初期のイギリス・フランス連合軍とドイツとの戦いは、「まやかし戦争」と呼ばれたりします。

ドイツ国境付近の連合軍、ヒトラーを刺激しない様にあまり攻撃はしなかった(出典:Wikipedia)

2.ナチスドイツのフランス侵攻

フランスの国土防衛の要「マジノ線」

「第一次世界大戦」では、自分の陣地を築き、「塹壕」で戦うのが主流でした。

「防御型」の戦いの方が、攻撃する相手を自分の陣地から一掃できるので、有利だと考えられていました。

過去の大戦の教訓を踏まえ、 フランスは「攻撃」よりも「防御」を優先する戦略をとっていました

そうして作られたのが、「マジノ線」と呼ばれるフランスの東側の国境沿いに設置した要塞です。

現存するかつてのマジノ線の一部(出典:Wikipedia)

ドイツと隣接するフランスは、ドイツが西側への攻撃を始めれば、真っ先に戦火に見舞われることになります。

この「マジノ線」がフランス防衛の要となり、ここで相手を一網打尽にするのがフランスの作戦でした。

アルデンヌの森を突破するナチスドイツ

フランスの国境沿いは「マジノ線」の鉄壁と、「アルデンヌの森」という自然の要塞により守られていました。

しかしマジノ線は完全ではなく、特に北側はかなり手薄な状態でした。

時間をかけて軍備を整えたナチスドイツは、ついにフランス側への大規模侵攻を開始し、マジノ線の手薄なフランスの北側から、徐々に南下し始めました

それを阻止するように、連合軍はフランス北部へと向かいましたが、しかし、これはドイツ側の罠だったのです。

走行するのが困難な「自然の要塞」と思われていたアルデンヌの森を、ドイツの大規模な軍隊が通り抜けて、連合軍の南へ回ったのです

青矢印:連合軍の動き
赤矢印:ドイツ軍の動き
※当時では無く現代の地図を使っています(図はイメージです)

5月10日の夜以降、アルデンヌ上空を飛行したフランス空軍の複数の偵察機は、森の間を縫う道路に大規模な車列が形成されていることを報告した。(中略)

それが見間違いでないか確認するために5月12日の朝に再度の偵察飛行を行ったが、帰還した偵察機の機体はドイツ軍の対空砲火で穴だらけになっており、前日彼らが発見した敵の大車輌部隊の存在が改めて確認された。

西部戦線全史 死闘!ヒトラーvs.英米仏1919ー1945p.215

3.ダンケルクでナチスに包囲された連合軍

連合軍のダンケルクからの撤退

ダンケルクからの撤退を待つイギリス軍(出典:Wikipedia)

こうして連合軍は、フランスの北部の海岸「ダンケルク」に包囲されてしまいました

追い込まれた30万人以上の連合軍が生き延びる術は、英仏間の海峡を渡って、イギリス本土に行く以外にありません

この追い込まれた連合軍、そしてその撤退作戦が、まさに映画『ダンケルク』で描かれたストーリーですね。

ダンケルクでは、イギリスへ渡る船を待つ兵士で長蛇の列となっていました。

しかしドイツのヒトラーは、ダンケルクへ囲い込んだ兵士への掃討作戦を遅らせることになります。

なぜすぐに掃討作戦を行わなかったかは、いろいろな議論がなされているようですが、「イギリス側との本格的な戦争を回避したかった」や「掃討作戦への軍備を整える時間かかった」などと言われています。

呼びかけに応じた民間の船の協力

ダンケルクで、ナチスドイツからの空襲を受ける連合軍(出典:Wikipedia)

30万人以上の兵士を撤退させるには、かなりの数の船舶が必要です。

一方、撤退作戦にすべての船を向かせていては、すぐに始まり得るドイツのイギリス本土への攻撃に対する防衛が手薄になってしまいます

そこで頭を悩ましたイギリス政府は、「民間の船舶」にダンケルクへの撤退作戦への参加を要請しました。

この要請に多くの民間人が応じて、大小様々な船がダンケルクへ向かい、連合軍兵士の救出の援助をしたようです。

映画『ダンケルク』でも、勇気ある民間人が、船を運転してフランスの海岸まで助けに行く視点が描かれています。

ドイツ空軍の妨害で昼間の乗船が不可能になった後も、英仏両軍は船舶での脱出作戦を夜間に継続し、6月4日までに33万8226人の英仏両軍将兵が、大小の船でドーヴァー海峡を逃げ延びてイギリス本土への脱出に成功した。

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4.ダンケルクの撤退による影響

フランス降伏

エッフェル塔を背に写真を取るヒトラー(出典:Wikipedia)

ダンケルクから、無事に30万人以上の兵士がイギリス本土に撤退することに成功しました。

本来であれば撤退は「ネガティブ」なイメージです。

しかし、ダンケルクからの撤退は、今後もナチスドイツと戦争を続ける意思の表れであり、帰還した兵士はイギリス国民から熱烈に歓迎されたようです。

ダンケルクから兵士が撤退後、残ったフランス軍ではナチスに太刀打ちできず、やがてパリも落ちてフランスは降伏するにいたりました

ドイツ軍の先遣部隊がパリ市内に入り、オートバイ部隊に先導されたドイツ軍自動車化部隊が、堂々とパリの大通りを通行した。カギ十字の描かれたドイツ国旗がエトワール凱旋門にひるがえり、ドイツ軍の軍楽隊が行進曲の演奏を開始した。

西部戦線全史 死闘!ヒトラーvs.英米仏1919ー1945p.242

西の大国「フランス」がナチスの手に落ちた様子は、世界に衝撃をもたらしたといいます。

ナチスのイギリス本土への侵攻準備

盟友フランスがナチスの手に落ち、ヨーロッパにおいてはイギリスは孤立してしまいました。

しかもイギリス本土とほど近いフランスが落ちたことにより、ついにはナチスがイギリス本土へ攻撃できる距離にまで近づいてしまいました。

ナチスドイツは本格的に、イギリス侵略の準備を進めます

こうして英仏海峡で行われる航空機の大激戦である、「バトル・オブ・ブリテン」につながるのです。

ロンドン上空を飛ぶドイツの戦闘機(出典:Wikipedia)

5.徹底抗戦するイギリス

ウィンストン・チャーチルの言葉

実はヒトラーは、イギリスのとの血みどろの戦いを望んでいませんでした

ヒトラーは、フランスさえ落ちればイギリスはドイツに対して「和平交渉」に臨んでくると、楽観視していました。

しかし、イギリスはナチス・ドイツへの抵抗を全く止めず、首相ウィンストン・チャーチルは1940年6月18日、下院議員の演説で以下のようになメッセージを発したのです。

フランスにおける事態の推移にかかわらず、またフランス政府の地位がどうなろうとも、わが国とフランスの戦友関係が失われることはない。そして、チェコ人、ポーランド人、ノルウェー人、オランダ人、ベルギー人など、我々と進退を共にする人々が、元どおりの生活を取り戻すという正当な要求を、我々は1分たりとも譲ることはできない。(中略)

我々は自らに課せられた義務のために勇気を奮い起こし、大英帝国とその連邦が今後1千年続いた後もなお、人々に「あれこそ英国の最も誇り高きとき(Their Finest Hour)であった」と讃えられるよう、振る舞おうではないか。

西部戦線全史 死闘!ヒトラーvs.英米仏1919ー1945p.262

この演説は、イギリス国民はもちろん、ヨーロッパでナチスに占領された人々を鼓舞することにつながりました。

こうしてイギリスは「バトル・オブ・ブリテン」で、ドイツに対して徹底的に戦い抜くのです。

政府の戦意高揚プロパガンダ・ポスター。追い詰められながらも大英帝国の壁を守るチャーチルの図(出典:Wikipedia)

ノルマンディー上陸作戦へ

徹底交戦するも追い詰められたイギリスは、最後の望みとして、西の大国「アメリカ」の参戦を必死に促していました。

やがて日本が「真珠湾攻撃」を行ったことによりアメリカは参戦し、アメリカは日本と同盟を組んでいたナチスとも戦争状態に入りました

こうして、アメリカ・イギリスの連合軍は、「ダンケルクでの撤退」の屈辱を返し、フランスを解放してナチスドイツを倒すために、「ノルマンディー上陸作戦」を実施するのです。

ノルマンディー上陸作戦で有名な映画『プライベート・ライアン』を知っている人は多いかもしれないですが、『ダンケルク』も大きく関係していることは、知らなかったのではないでしょうか。

おわりに

今回の記事では、ダンケルクにおける史上最大の撤退戦について、わかりやすく解説しました。

歴史を知っていると、戦争映画はかなり理解しやすいし、楽しめます。

ぜひ、『ダンケルク』を観てみてください。

また、今回の記事は「西部戦線全史 死闘!ヒトラーvs.英米仏1919ー1945」という本の内容をベースに書いています。

こちらの本では、ヨーロッパにおける戦争の流れが分かりやすく書いてあるので、興味がある方はぜひ読んでみてください!

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今回はこの辺りで。

それではまた!